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未帰還6機⑥・・・武藤少尉

紫電改・・・ハセテックさんの画像です!

武藤 金義   海軍少尉 343空 戦闘301新撰組  愛知県出身  享年 29歳

日本海軍きっての名パイロット。 「 空の宮本武蔵 」 の異名を持つ。 卓越した空戦技量もさること
ながら、部下に対して思いやりがあり、かつ威厳に満ちたその優れた人間性を賞賛する声も多く伝え聞く。

昭和12年12月南京攻撃が初陣。 太平洋戦争開始とともに フィリピン、ラバウル、横須賀、硫黄島、
横須賀と転戦。 昭和20年2月17日の相模湾上空におけるグラマンF6F 12機と単機で交戦。
地上員が見守る中 4機を撃墜し、一部始終を目撃した雷電で有名な赤松少尉も、彼の腕前に舌を
巻いたそうだ。

※ 彼は未帰還6人の中で、ただ一人結婚していた。 昭和17年11月に結婚したが、結婚写真は
  妻の喜代子さんと別々に撮って あとで貼り合わせたものだという。 
  彼はこの時期内地にいたが、隊務が多忙で式に帰れなかったのだ。
  昭和20年3月(横須賀航空隊時代)、待望のこどもが生まれ、凱子(よしこ)と名付けられた。


妻・・・喜代子さんの話

あわただしい軍人の妻です。 3年間の結婚生活のうち、いっしょにいられたのは、ごくわずかでしたが
転勤につぐ転勤の中でも、横浜に近い神奈川県六浦町で過ごした、二ヶ月の生活が忘れられません。

主人は来いとは申しませんでしたが、私は生まれたばかりの凱子を連れて昭和20年4月半ば、愛知県の
実家から 主人が借りておいてくれた 六浦町の家に移りました。 すでに内地も戦場で、昼も夜も
空襲警報がひっきりなしに発令されるようになり、主人も帰って来ない日が多く、親子三人が川の字に
なって まどろんだ夜は、幾日もありませんでした。

配給物は長蛇の列で 半日がかりですし、野天の共同井戸は 水の出が悪くて洗濯もままならず、
お風呂は一番乗りしてもシラミがついてくる始末で、毎日毎日が大変でした。

でも それがあったから、私は尽くすだけ尽くしたんだからと、晴れ晴れした気持ちでいられますし、
主人も、「 いいよいいよ、先に行って待っているから 」 と言ってくれるような気がします。

                 亡き夫の霊に捧ぐ

  あでやかな  花嫁姿  我児なりしと  夢を書き来し  良き父なりき

  出撃の  凛たる影(すがた)や  剣部隊  昨日のごとく  目に往き交いて

  軍人(いくさびと)  八十余の便り  送り来て  文字あとなつかし  偲ぶよすがに

  生かされて  心静かに  御ほとけの  冥福祈りて  菩提まもらん

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  1. 未帰還の六機
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未帰還6機⑤・・・溝口一飛曹

紫電改・・・ハセテックさんの画像です!

溝口 憲心  海軍一飛曹 343空 戦闘407天誅組  広島県出身  享年 21歳

溝口家では、終戦の一ヶ月前に彼から元気でいるという手紙を受け取っている。
だから終戦になった時、内地の しかも大村だからすぐに帰って来るものと家族は心待ちにしていた。

妹・・・静枝さんの話

家は駅に近いので、両親は汽車の音を聞くたびに外に出て、下車する人々の中に兄の姿を求めて
待っていました。 そんな気持ちで待っているうち、9月の下旬だったと思います。
戦死の公報を受け取ったのは。 母はもう半狂乱でした。 信じられるはずがありません。
終戦の一ヶ月前に元気な便りを大村の航空隊から受け取っているのですから。

仏壇の前に兄の写真がおいてありましたが、父はそれを見ると、憲心が火だるまになって落ちて行く
姿が目に浮かんで眠れないと、よく言っていました。 両親は、それなりに覚悟はして出したので
しょうが、相当なショックだったようです。 私もそれまで肉親と死別したことがなかっただけに、
涙が涸れるほど泣きました。

月日も過ぎて紫電改も引揚げられましたが、父はついにその姿を見ずに亡くなりました。
母は引揚げに立ち合いましたが、自責の念にかられてか、兄のことを偲び、涙も新たに またも
涙のかわく日がなかったようです。

今の時代でしたら 16、17の息子を戦争に出す勇気があるでしょうか。 私も子供を持つ親として、
母の悲しみがよくわかります。 戦争は絶対あってはなりません。

※ 紫電改が揚がったとき、はるばる広島から駆けつけた一人の女性がいた。
  戦時中、溝口と交際があり、新聞で紫電改引揚げのことを知って飛んで来たという。

  長身で美丈夫の彼は、宴会などでよく芸者にモテたらしいが、酒も飲まず真面目一方だった彼が
  女性に求めていたものは、心のやすらぎではなかったか。 

  今は家庭の主婦として平和な生活を営むこの女性は、彼との若き日のロマンスについて多くを
  語らずに機体の引揚げを見終わると急いで帰っていったが、彼女と会った姉の冨子さんは
  しみじみと語る。


姉・・・冨子さんの話

もし憲心が、恋心も何も抱くことなしに死んだのなら かわいそうだったけれども、そういう青春の
ひとときがあってよかったと、それを一番思いました。


  1. 未帰還の六機
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未帰還6機④・・・今井二飛曹

南レク馬瀬山公園

今井 進   海軍二飛曹 343空 戦闘301新撰組   群馬県出身  享年 20歳

彼は未帰還6人の中の最年少だった。 戦死は昭和20年の暮れに公報によって知らされた。
すでに一家をあげて東京に移っていた今井家では、故郷の墓に納骨すべく、食糧買出しで混雑する
下り列車で上野を発った。

弟・・・隆さんの話

ずっと立ちんぼうの列車で故郷の群馬県中之条町に着いた私は、「 やっと帰って来たね 」 と
かかえた中身のない遺骨箱にささやき、そっとなでました。 私の服装といえば、カーキ色の制服は
つぎはぎだらけで、靴は代用品のサメ肌のものすらなく、地下足袋にゲートルという姿でした。

制服のボタンは金属の代わりに学校のマークが入った瀬戸製でしたが、一個とれてなくなったあとに
兄が残して行った制服の金ボタンをつけてありました。 それが光っているのが珍しく、また誇らし
かったのですが、それを見ると兄のことが思い出され、どうしてもガマンできず、車中でボロボロと
涙をこぼし、つぎのあたった制服の袖口を濡らしたのをおぼえています。

※ 昭和20年5月頃、今井は大村から弟の隆さんに、“ 七たび生まれ変わって国をまもらん ”と
  詠んだ大楠公 (南朝の忠臣 楠 正成) の辞世を引用して、国に殉ずる決意のほどを書き送って
  いるが、それがどんなことを意味するかは、現実となってはじめて知る弟であった。

  弟の隆さんは戦後、兄と最後に別れた思い出の地、木更津飛行場の見えるところに、
  母 ひろさんとともに移り住んだ。


母・・・ひろさんの話

進の戦死を聞いたとき、気が遠くなるほど怖かった。 戦争に負けたんだから仕方ないと思った
けれども、何日も眠れない夜がつづいた。

もう、大きくしただけのもんだよ。 総領じゃあったし、言うことだけは聞いてやったんだけどな。
もっと、どんな思いをしても帰ってくるつうね、度胸があればよかったが、お国のために死ぬんだ、
死ぬんだっていう、最後は死ぬつうことばっかり思ってたように見えましたけどねぇ。

万が一にも紫電改が引揚げられたときは、進であってほしいなあという一念だけは忘れず、
頭にあります。 それこそ戦争に負けたんも神武以来だもんね。 国はじまって以来だもん。
戦争ばぁっかり十年にいっぺんしてたから、年中貧乏して。
明治の人間で、楽してきた人なんかありゃしない。 苦労したよ。 無駄苦労だよ。

  1. 未帰還の六機
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未帰還6機③・・・米田上飛曹

紫電改

米田伸也   海軍上飛曹 343空 戦闘301新撰組   熊本県出身  享年 21歳

母 よしさんが最後に彼に会ったのは昭和20年の春、剣部隊が鹿屋に移動するときであった。
鹿屋へ行く部隊の兵員を乗せた列車が、夜中の2時頃 熊本駅を通過すると知らされた よしさんは、
夫とともに駅で待ち受けて、いっしょにその列車に乗った。

彼や戦友たちにも食べてもらおうと、よしさんは持てるだけの おむすびを持ち込み、鹿屋への
分岐点である吉松駅で降りるまで、息子とずっと話をすることができた。 

二人の息子を軍隊に出した よしさんにとって、たとえようもなく貴重な時間であったが、別れ際に
言った言葉が母の胸に刺さった。
「 お兄さんは帰ってこなくてはならんが、僕は あてにしないでください。 どうか帰って来ないと思って。」

母 よしさんに宛てた最後の葉書

『 母上様、その後いかがお暮らしでございますか。 くだって私、元気にて軍務に励んでおりますゆえ、
御安心下さい。 梅雨は晴れたとはいえ、まだしとしとと雨がつづいております。
佐代や美穂はどうしておりますか。 では、お元気で、早々。
                              長崎県大村航空基地気付   米田伸也 』

母・・・よしさんの話

昭和20年の暮れ頃でしたか、部隊長の代理の方が位牌を持って見えました。
それで伸也の戦死がはっきりしましたが、夕方になると、帰りはせぬかと あきらめきれない日が
ずいぶん つづきました。 

二、三年前にも伸也の夢を見ました。 部隊に帰るという伸也は、服もヨレヨレ、靴下もよごれて
いたので、「 待ちなさい。 帰るならお父さんのいい靴下があるから、それと代えていきなさい 」
と申しました。

すると伸也は、「 いやいやお母さん、これでたくさん。 時間がおそくなるので僕はこのまま
帰るから 」 といって急いで去っていきました。
夢からさめて、あれが最後のお別れだったのかと思いました。

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未帰還6機②・・・初島上飛曹

紫電改プラモデル

初島二郎  海軍上飛曹 343空 戦闘701維新隊  和歌山県出身  享年 22歳

色白でスマート、静かな青年だったが、練習生の時から成績抜群で、特に射撃の腕は評判だった。
343空の中島少尉から 「 必ず鴛淵隊長を守ってほしい。 もし隊長を失えば、戦闘701はもとより
343空の士気に関係し、また今後の海軍制空戦闘機隊の命運にもかかわります 」 と頼まれ、

彼は、「 責任の重大さを感じています。 隊長はこの初島が守る。 まかせてほしい 」 と答えたという。
その言葉どおり、白煙を吐きながら高度を下げる隊長機によりそい最期をともにした。
自分だけ生き残ることも可能であったろうが、あえてそれをせず、隊長に殉じた。

弟・・・民雄さんの話

隊長の護衛機になると、隊長を墜とされたら生きていられないという気分があったと思うが、弟とすれば
無事帰って来て結婚もし、子供ももうけて人生の喜びや哀しみを味あわせてやりたかった。

私の娘なんかも実際に兄に会ったことはないけれども、私がしょっちゅう話をするのでよく知っている。
年をとってくると、だんだん思いが深くなるのか、今でもときどき夢を見ることがある。

つい最近も、見知らぬ少年が現れて 「 だれや 」 と聞くと 「 二郎や 」 と言うので、
「 二郎やったら俺の兄やないか 」 と言っている夢を見た。
小さい時、養子に行ってしまった兄とは、いっしょにいたことはなかったのに。


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